中村 香澄




今回はMANYUMANYUのデザイナー及びディレクターを務める中村香澄さんにお話を伺ってきました。


ではまず、MANYUMANYUを始めたきっかけは?

小学生の時から洋服が大好きで。地元にお店があった『AHCAHCUM.MUCHAMCHA』の服に一目惚れ。当時読んでいた漫画の影響もあってこの頃からデザイナーになりたいと思い始めた。お金を貯めて時々買うアチャチュムの洋服。この頃のお洋服がキラキラして見える感じ、自分の気持ちがワクワクしたことが今の作品にも生きているという。この頃から、洋服は直感で選んだ。

中学3年生の進路選択の時期。ずっと親にも友達にも打ち明けられなかった「デザイナーになりたい」という夢。言えなかったのは反対されると思ったからだった。でももうその頃には遅すぎた。デザイン系の学校に入るには、その道の実力が少なからず必要だったのだ。そして親にも普通の高校の方がこれからの選択肢が広がるから、と言われてしまい公立高校に入学。高校生になってからも、ずっとデザイナーになりたい夢は消えなかった。勉強をせず、雑誌を切り抜いてスクラップブックを作ったりしていたという。



高校3年生の重要な進路選択。ここでも両親には納得してもらえなかった。父親がアパレル系のお仕事をしていることから現実の厳しさを伝えられ、本望だった服飾関係の専門学校ではなく美術大学に入学。ここではデザインではなく、不本意で伝統工芸の染色を選択した。この染色は今のMANYUMANYUの作品にも活かされている。それに学校では2回生までは平面の勉強だったために服作りは禁止されていた。それでも大学生になり、本から知識を集めたり、服飾系の専門学校に通う友達に教わったりして黙々と洋服作りに励んだ。早朝からコンビニでアルバイトをし、授業の始まる1時間前に学校へ行き作業。夕方、授業が終わってからも夜の8時まで1人作業室にこもって製作に励んだ。それから夏休みも冬休みも来る日も来る日もデザイナーになりたい、という一心から毎日学校へ通った。

大学卒業を目前にした3月。今まで作った作品たちの展示、販売を「kara-S」(京都精華大学にあるギャラリースペース)にて行った。ここのギャラリースペースで展示が出来たのは、大学の助手の先生の展示を見に行った際に繋がりを得たからだそう。このことからもわかるが、チャンスと思った時の香澄さんの行動力はすごい。普段は重いらしい腰がスッと軽くなり、どこへでも駆けつけるという。この初めての個展では、出した服は全て来てくださった方の手に渡った。そして、この時、MANYUMANYUとしてこの道を歩むことを考え始めた。というのも、当時、デザイナーとして働くために就職活動をしていたにも関わらず、どこにも採用をもらえなかった。


大学を卒業して1年。就職活動、アパレルでのアルバイト、個展をしつつ、変わらず洋服を作り続けた。腕が落ちるから作り続けていた、と彼女は言うがきっとそうでなくとも製作をやめなかったと思う。そのくらい洋服を作るということに対しての思いがひしひしと伝わってきた。

就職活動の努力も実らず、大学卒業から2年。この頃には、初めは反対していた母親も「やるなら本気でやりなさい」と。そしてついに就職活動もアルバイトもやめて「MANYUMANYU」1本でやることを決心した。



毎回、キュートなテーマを掲げて洋服作りをしているがそのテーマをどうやって決めている?

その時にやりたいと思ったことももちろん、また大学生の時にやりたくてもできなかったものを、当時から書き溜めていたスケッチブックを参考にして決定するという。その根底には「小さい頃の思い出」という大元のテーマがある。「子供の頃のなんでもキラキラ、ワクワクして見える様子。自分がアチャチュムの洋服を見たときのような、そんな気持ちを感じてほしい。」そこに拘る理由が、洋服たちに繋がっていた。

今は休まず、ほぼ毎日自宅で服を作っている。少しずつ軌道に乗ってきた今、量を意識せざるを得なくなってきた。それは、とてもありがたいことである反面、今一度、原点に立ち返りとことん拘った衣装のような洋服を作りたいという。

大学4回生の頃から、毎年行っている「kara-S」での個展。この個展にて服が売れなければ辞めよう、と毎年自分の気持ちを引き締める。今年の個展では、そのとことん拘った洋服も並べたいと語った。



香澄さんの日常を伺った。普段、SNS上ではなるべくネガティブなことを思っても発信しないようにしているようで、知る人は少ないだろう。まずはこの日までにあれしてこれして〜〜〜とスケジュールを立てる。染める部屋、縫う部屋、PCのある部屋、と家のどこにいても仕事のことは頭から離れない。1度に染められる布の面積はスカート2着分。染めて、乾かして、の作業を繰り返していると、あっという間に日が暮れてしまう。染料を落とす作業では30分ぶっ続けで、水に布を浸してひたすらにすすぎ続ける。腕がつりそになることも多々あるらしい。全ての工程が一発勝負のため、失敗も多々起こる。そんなこんなで、体力、時間、お金がとてもかかるお仕事なのだ。


時々やってくる脱力感、無気力感。そんな日でも、とにかく布の前に立つ。プロ根性だ。

それでも気分が落ちてしまっているときには休憩を取る。そんな気分の中で染める布は決まっていい色が出なかったり、売れ残ってしまう。そういう目には見えない、服に込めた思いが手に取るお客様に伝わっていくのだ。洋服と共に香澄さん自身を届けている、そんな気がした。


音楽を聴きながら作業したりすることも絶対にない。服作りとは全く違う情報が入ってきてしまうからだそう。きっとそれも、香澄さんの耳から腕を伝って服へと伝わるのだろう。だからいつも無音の静寂な空間での作業となる。

今は洋服をメインに作っているが固執している訳ではなく、ただ身につけらられるものが洋服だった。デザイナーになりたいという気持ちから今まで歩んできた道を辿ると、美術もやってきた経緯もあったからこそそう思えるのだという。


話を聞くだけでも十分に伝わってくるMANYUMANYUを存続させていく大変さ。それでも、今、こうしてMANYUMANYUの中村香澄でいる理由を尋ねると、1番にお客様がいるから、と。

作り始めた頃から買ってくれる人。大学、地元、、昔参加していたファッションショー関係の友達。試着して、お客様が これ! と決めた時の顔を見れば辛いことなんて吹っ飛んでしまうという。

また、ボソッとこんなことも言っていた。子供の頃、遊園地に連れて行ってもらったり、親と一緒にヨモギ団子を作ったりした。昔はこれが当たり前だと思っていたけど、そうではなかったんだ、と今になって分かるし、親のおかげだなぁ、と言っていた。

MANYUMANYUの繊細で、キラキラと輝く作品たち。それはデザイナー 中村香澄 の人生そのもので、これからもっともっと求められ続けるのだろうと思う。

a m 3

わたしの生きたい世界で生きたっていいじゃない

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